言われなくても


   093:振り返らないのはただ怖いからだって、知っている

 卜部は上官である藤堂と関係している。同性ではあったが基本的に構成員の性別に偏りがある種類であるからさほどの詮索も中傷もない。藤堂自身が性別を問わずに魅せるし惚れられることも少なくない。身なりとしては立派に男性であるのにどこかですべてを覆らせるほどの美貌だ。万人受けするものではないし性差も明瞭。藤堂の丈となりと顔を見て女だというのは余程のアホだ。軍属である肩書きに恥じぬ鍛えられた体つきをしている。肩もある。腰は少し細め。だが脆弱ではないし自己主張もする。だからその襲来は本当に突然だった。
「あんたには負けないから」
言われた台詞が自分に向いていると思ってなかった卜部は反応が遅れた。まばらではあったが喫煙室はあまり無人にはならない。咥えたままの煙草を一瞬忘れた。喫まない朝比奈が喫煙室に来たのを珍しいなぁと思って流してそのままだった。眼鏡も髪の長さにさえこだわる朝比奈は喫煙しない。汚れるじゃないと文句をいう。卜部は返答に迷った。朝比奈が固執するのはたいていにおいて藤堂に関係することだが、それと台詞が咬み合わない。噛み合ったらあったで不穏だ。
 「いい? 藤堂さんの相手はあんただけじゃないんだから! 調子乗るなよ!」
返答に窮する投げかけだが卜部は困ると黙る性質であるからこのまま黙ってればやり過ごせるかも、などと思う。朝比奈も寝床のことをおおっぴらに言うような無責任ではないし気が済めばどこかへ行くだろう。なんの相手であるかを偶然居合わせた聴衆に聞かせてやる気はなかった。案の定朝比奈は言いたいことだけ言うと返事も聞かずに足音荒く去っていく。朝比奈の言葉は要約すると藤堂の優しさは藤堂の気遣いであるからお前が特別だと勘違いするな、という。

くだらねぇ

勘違いした覚えはないがそう見えていたかなと思う。飄然とした性質と風貌なのは卜部の護りだ。瞬間的な膨れ上がり方次第では暴力沙汰になる所属だが、命を削る職場であるから諍いは長引かない。その場をやり過ごす処世がいつの間にか身についた。
 絡まった視線が解けるのを感じてから卜部は煙草を潰して喫煙室を出た。ありふれた痴話げんかや諍いであると判じられたのが判る。藤堂が高嶺の花であるから往々にして本人の知らないところで何事かが発生する。頻繁なそれを藤堂に報告する者さえいない。聞き流すラジオの音楽のようなものだ。気になると思うのに次にはそれがどうでもいい。煙草の包が潰れた。なンだよ、切れたな。劣悪な環境では嗜好品を手に入れるのが面倒だ。酒も煙草も貴重な愉しみである。長駆を繰って皆と違う律動で歩く。四肢が長いので歩幅やタイミングが微妙にずれる。どうもその差異を居心地の悪さとして感じられることが多くていつの間にか卜部はあまり群れなくなっていた。藤堂はそんな卜部を直属の位置へ欲しいと望み、邪険にしない貴重な人種だ。
「卜部?」
声をかけられて驚いているのに振り向く頃にはそれが消えている。藤堂というキィワードで朝比奈とそのキーキーしたまだ若い高音を連想してげんなりした。藤堂は首を傾げている。
「なにかあったか?」
心境や情の機微に藤堂は敏い。嫌なことや堪えていることがあると藤堂は決まって隣へ寄り添ってくれる。何があったなどと訊かない。話せとも言わない。触れるか触れないかの位置で火照る藤堂のぬくもりは強張りを解いてく。
 だから感謝しているし障りがあれば除いてやりたいと思うのに卜部は先程の朝比奈のことを話した。これで藤堂が朝比奈に何か言って卜部の告げ口が知れても構わなかったし、藤堂がどういう反応をするか興味が湧いた。卜部はたいていの事態と結末に倦んでいる。
「あんたの特別じゃねぇんだから調子乗るなって釘をさされました」
きょとん、とした藤堂が言葉を咀嚼する。卜部のそれを噛み砕いていく藤堂の顔がみるみる真っ赤になった。耳や、見えないが首まで真っ赤になっている。有色人種であるから紅潮や蒼白の度合いはあまり周囲には知れないのだが、藤堂は見る間に明瞭に赤面した。
「そ、そんな、こと」
予想外のそれに卜部のほうが怯んだ。藤堂の怜悧さは日本刀のそれに似て崩れない。危機的な状況に陥ってもなおそれを覆すのを繰り返してきた男だ。灰蒼の双眸が卜部を見た。卜部の方が丈があるので自然に上目遣いだ。灼けた肌の中で眼球の白さは刳り抜かれて目立つ。
「それで、お前はなんと言った」
「なんも言ってねぇですよ。だいたい返事聞く前に野郎がどっか行ったんですから」
藤堂が目に見えてしおれた。え、なにそれ。俺が悪いのか。卜部は重心を移動させた。軍属になってもこの癖は治らない。脚をたわませるように立っている自覚があるし骨も歪むと思うのだがどうも人と違う視点の高さを引け目に感じて斜になる。及ばないのだとバレる前に手加減していると思わせる防御姿勢だった。
 降りた沈黙に卜部は居心地が悪い。関係があるといってもずっと愛してましたとかそういう純愛であるとは思ってない。卜部の見る藤堂は明らかに憧憬と羨望と目標と、嫉妬。真っ直ぐなだけの想いも好意だけの想いもあるとは思ってない。少なくとも自分にはないと思う。だからすぐさま肉体関係に通じた。恋愛という事前準備を省略した結果として朝比奈から叱責や罵声を浴びるし、藤堂の機微もよく判らない。卜部が承知していないだけで藤堂の側から見ればきちんと手順を踏んでいるのかも知れなかった。だとしたら罪が重いなぁと思う。だからその名前が舌に乗ったのだと思う。
「朝比奈、と」
びくん、と藤堂が震えた。驚きと怯れの入り混じった戦慄に藤堂の肌が収斂した気がした。
「朝比奈が、俺に俺はあんたの特別じゃねぇから調子のんなって言ったンすよ」
藤堂は応えない。凛と意志の強さを秘める眉筋も通った鼻梁もすでに虚仮威しだ。虚勢で、虚飾で。それはたぶん、卜部が誰よりも何よりも馴染みのある感覚だ。
「あんた、朝比奈と寝てンの?」
表情が、消えた。怒りや憤りさえない。藤堂の双眸は無垢に何も知らない子供の硝子球だ。恥も外聞も護るべきものさえ持たない、何も鎧わない剥き出しの。藤堂は不意にこんな目をする。こんな顔をする。だから卜部はそのたびに逃げることも出来ずに後ろめたさを抱きながら手を引いた。俺の欲の在り処なんてあんたにはどうでもいいこと。
 「卜部は私が、嫌いか?」
論点は意図的にずらされて卜部はわかっていて修正しない。藤堂ほどの頭脳が卜部の稚拙な問いの本質を見抜けないわけがない。
「べつに」
「なぜ、抱かれる?」
「俺は気持ちいいことが好きなんですよ、なりふり構うような上等さは持ってねェ」
斜に構えるのも蓮っ葉な言動を繰り返すのも卜部の防御。攻め入る積極性はないくせに守りたい自分だけは大量だ。嫌になる。卜部の目が眇められた。茶褐色の小振りな双眸を藤堂は正確に見つめ返してくる。藤堂はいつでも誠実だ。努力を惜しまないし怠らない。だからこそこの地位だし階級だし。不満も不平もない。藤堂であれば当然だ。だからそこへ連ねられる自分がひどく。
「お前は四聖剣だ」
「判ってますよ!」
爆発しそうになる気配に卜部は語気を強めた。藤堂の思惑がどうあれ退いてくれればいいし、退かねば卜部が退くだけだ。
「私はお前たちを、お前を、恥だと思ったことはない」
藤堂の唇が動く。開く。すぼまる。紅い。

私はお前が
すきだ

痙攣する両手を卜部は爪を立てて握り殺した。食いしばる歯が軋む。思い切り藤堂を打ち据えてやりたかった。平手でも拳でもいいからその口を塞ぎ言葉を殺し音を絶えさせてやりたい。落とした目線が上げられない。斜め下を睨みつける卜部を藤堂の灰蒼は残酷なほどまっすぐ見据える。無垢で無慈悲で、どこまでもそれは公平の枠の中。朝比奈のわがままさえ諌めてきた目が今、卜部を殺す。
「言いたくねぇならそれでいいすよ」
打ち切るふりで卜部は逃げを打つ。話題も言葉も藤堂の目線さえも断ち切れればいい。そもそも朝比奈と藤堂が関係していたところでどうもしない。文句もない。感情的に寄り添う前に体へ繋がっただけだ。執拗な朝比奈の方こそが感情や気持ちといった手順を踏んでいるのかもしれない。情動から見ると体だけの関係はむやみに腹立たしく見える。
 「卜部、お前は」

こわいか?

ぞっと背筋が粟立った。脊髄を駆けるものは明確に恐怖を帯びた戦慄だった。鳥肌が立つ。目を見開いたかどうかの自覚さえ生まれないまま卜部は口元を引き結んだ。汗が噴き出る感覚はあるのに皮膚は一向に湿りさえしない。卜部の感覚は明確に分断された。項がちりちり灼ける。縹藍の黒髪が逆だったような気がした。ある程度の決意と覚悟を帯びた目線を藤堂はふわりと笑う。困ったように。どうしたら判らないと言いたげに。自分の行動の効果が予想を超えた子供の、それ。
「卜部」
「さぁ」
漏れたのが音なのか声なのかは区別がつなかったが藤堂は納得したようにそうかと言った。立ち去ろうと思うのに卜部の靴底はもう糊付けしたように離れない。このままここにいても痛みを受けるだけだと判っているのに、その攻撃が見たくてそこにいる。自分を切り刻む刃を見たいと思っている。
「卜部は私以外の誰かに、抱かれたことがあるのか?」
通路で訊く内容ではない。卜部は返事をしなかった。思い出したくもなかった。そのズレで卜部は藤堂の目線から逃げることが出来て重心を変えた。視線が解かれていく。痕が残ると思うほど強かった痛みは潮のように引いていく。甚振るだけ甚振って痕跡さえ残らない。
 「あんたこそ色々聞くぜ。ずいぶん、お盛んだって話」
藤堂の相手であることを主張するのは異性に限られない。朝比奈を筆頭に卜部は見たことも聞いたこともない輩から叱責される。理由はたいてい藤堂で、しかも後で藤堂に問いただすのに要領を得ない。藤堂の方で忘れているのだから卜部にはどうしようもない。だが卜部を責める相手は二度と来ないから藤堂の方で何かしてくれている可能性もある。卜部はそれを考えて今まで罵倒も罵声も暴力沙汰さえ藤堂に閨で訴えたことはない。鳶色の藤堂の髪が艶やかに輪を描く。
「お前は特別など無いと言った。私でさえ特別にはならないと。だから、私は」
口を塞いでやりたい衝動が殺せなかった。伸びた手を藤堂は冷静に払い、手首を掴んでくる。骨の突起を転がされる。
「私も怖い。私は何かにすがっていないと怖くて怖くてたまらなくなる。お前は私を捕まらせてくれた。捕まる私を、お前は特別ではないと言った。お前が、私を」
血に触れていると思った。熱くて鉄錆の匂いをさせて粘ついて飛散する。染みは落ちないし皮膚にさえ侵食する気がする。初めて人を殺したときは何度も吐いた。腹の中をかき回して臓腑を抉った時に手にかかる、血飛沫。喉が痙攣した。息を呑む。呼吸さえ殺さないと嘔吐しそうだった。

「お前は私に居ていいと、言ってくれた」

唇が重なる。柔らかい。ぬめる舌が口を侵す。呼気さえも交わす近い、位置。
「朝比奈とは、寝ている。子供の相手はしなければな」

藤堂から血の味がする。
そんなこと、わかってた


《了》

安定のアンハッピーさ加減(だめだろ)           2013年2月25日UP

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